乙巳の変(いっしのへん)- 絶頂の蘇我氏が没落

飛鳥時代

645年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、中臣鎌足(なかとみのかまたり)らが起こしたクーデターが乙巳の変です。

絶大な権力を握っていた蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺し、蘇我本宗家を滅亡させたました。

私の学生時代、教科書には「乙巳の変」という言葉はありませんでした。(たぶん)

現在「乙巳の変」と呼んでいるクーデターのことを「大化の改新」と呼んでいました。

現在では、乙巳の変のあとの政治改革を「大化の改新」と呼んでいます。

蘇我氏の権力が強大に

厩戸皇子(聖徳太子)、蘇我馬子、推古天皇が亡くなった後、権力を握ったのは蘇我馬子の息子である、蘇我蝦夷(そがのえみし)です。

推古天皇没後、田村皇子と聖徳太子の息子である山背大兄王(やましろのおおえのおう)が後継を争い、蘇我蝦夷の意向で田村皇子が即位し、舒明天皇(じょめいてんのう)となりました。

舒明天皇は第34代天皇で、629年に即位しています。

舒明天皇在位中、政治の実権は蘇我蝦夷が握っていました。

舒明天皇時代の630年に、第1回目の遣唐使派遣が行われています。

派遣されたのは、犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)でした。
この人は614年に最後の遣隋使として隋に渡ったという実績がありました。

皇極天皇(こうぎょくてんのう)

舒明天皇が亡くなった後、642年に皇極天皇が即位します。

皇極天皇は舒明天皇の妻で、天智天皇・天武天皇の母です。

645年に皇極天皇は孝徳天皇に皇位を譲りますが、655年に再び即位します。
このときは皇極天皇という名前ではなく、斉明(さいめい)天皇という名前に変えています。
天皇の位を受け継ぐことを践祚(せんそ)といいますが、同じ人が再び皇位につくことを重祚(ちょうそ)といいます。

皇極天皇の時代に権力を握っていたのは、蘇我蝦夷と、その息子の蘇我入鹿(そがのいるか)です。

彼らの専制化が目立つようになってきたことを示す事件が643年に起こります。

当時人望のあった山背大兄王(やましろのおおえのおう)が、蘇我入鹿によって自殺に追い込まれました。
山背大兄王は聖徳太子の皇子です。

このとき山背大兄王が攻められた宮は、斑鳩宮(いかるがのみや)です。
聖徳太子が営んだ宮殿です

蘇我蝦夷、入鹿らのこうした振る舞いに対する批判が、やがてクーデターに発展します。

絶頂の蘇我氏が没落

645年、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、中臣鎌足(なかとみのかまたり)らが中心となって、蘇我蝦夷、入鹿らを滅ぼします。
このクーデターを乙巳の変といいます。

中大兄皇子は皇極天皇の子で、後の天智天皇です。

蘇我入鹿は、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)の大極殿にて、皇極天皇の御前で暗殺されました。

翌日、蘇我蝦夷は自害しました。

乙巳の変で蘇我本宗家が滅亡したことにより、天皇を中心とした中央集権国家作りが加速しました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました