持統天皇の時代

飛鳥時代

持統(じとう)天皇は第41代天皇で、690年に即位しています。
第40代天皇である天武天皇の皇后で、日本史上3人目(4代目)の女帝です。

最初の女帝は推古天皇で、2人目は皇極天皇、皇極天皇は一度退位して、再び斉明天皇として即位しています。

持統天皇時代の出来事をちょいと勉強していきましょう!

叔父と結婚~皇后~称制~即位

持統天皇の父は第38代天皇の天智天皇です。
大海人皇子(のちの天武天皇)は天智天皇の弟です。
持統天皇は13歳の時、叔父の大海人皇子と結婚しています。

即位前の名は、鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)といいます。
壬申の乱の後、大海人皇子が即位すると、皇后に立てられました。

686年に天武天皇が亡くなると、鸕野讃良皇女は即位せずに政治を行いました。
即位せずに政治を行うことを称制(しょうせい)といいます。

天武天皇と鸕野讃良皇女の皇子で、皇太子の草壁皇子(くさかべのおうじ)が即位する予定でしたが、689年4月に死亡してしまい、690年に自ら即位することになりました。

持統天皇の政治

持統天皇の時代にはどのような政治が行われていたのかを見ていきましょう。

飛鳥浄御原令

即位前の689年、天武天皇の時代から編纂を始めていた、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を施行しました。
飛鳥浄御原令は、日本最初の体系的な法典といわれています。

庚寅年籍

690年には、庚寅年籍(こういんねんじゃく)という戸籍がつくられました。
これ以後、戸籍は6年ごとに作成されるようになりました。
現存する最古の戸籍は702年のものです。

藤原京に遷都

694年、都を藤原京に遷します。その前の都は飛鳥浄御原宮でした。
藤原京は、大和三山に囲まれた場所にありました。
大和三山とは、畝傍山(うねびやま)・耳成山(みみやしやま)・天香久山(あまのかぐやま)です。

藤原京は、中国の都城制(とじょうせい)を取り入れてできた日本最初の都でした。
南北を条、東西を坊で碁盤の目状に区切った条坊制を採用しました。
そして、中央に正方形の宮を置き、宮には内裏や大極殿、朝堂院といった政務・儀式を行う場が配置されました。

これ以前は天皇が即位するごとに新たな都に遷していましたが、藤原京は持統天皇・文武(もんむ)天皇・元明(げんめい)天皇の三代にわたって都として使われました。

太上(だいじょう)天皇 となる

持統天皇の時代は、天武天皇の長男である高市皇子(たけちのおうじ)が太政大臣(だいじょうだいじん)として補佐していました。
高市皇子の母は、尼子娘(あまこのいらつめ)です。

高市皇子が696年に死去すると、草壁皇子の子である軽皇子(かるのおうじ)が皇太子になります。珂瑠の字を使うこともあります。

697年、持統天皇は軽皇子に譲位します。
軽皇子は文武天皇となります。
文武天皇は、持統天皇の孫にあたります。

文武天皇が即位したときは15歳だったので、持統は太上(だいじょう)天皇(上皇)となり、譲位した後も文武天皇を後見し、政権を補強することとなりました。
持統が史上初の太上天皇です。

大宝律令制定

文武天皇の時代、701年に大宝律令(たいほうりつりょう)が制定されました。
大宝律令は、律・令ともに完全にそろった最初の法典です。

律とは現在の刑法に相当する法典です。
令とは現在の行政法に相当する法典です。

大宝律令編纂事業の総裁は、刑部(おさかべ)親王で、副総裁は、藤原不比等(ふじわらのふひと)でした。

大宝律令は、702年から757年まで55年間施行されました。

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