改新の詔(みことのり)をちょいと勉強

日本史

改新の詔(みことのり)とは、646年の正月、孝徳天皇が新たな国作りの方針を宣言したものです。
改新の詔についてちょいと勉強していきましょう。

孝徳天皇の時代

孝徳天皇は第36代天皇で、即位したのは645年です。
前の天皇は皇極天皇です。

皇太子として政府を支えたのは、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、
内臣(うちつおみ)として政府を支えたのは、中臣鎌足(なかとみのかまたり)です。

高向玄理(たかむこのくろまろ)と僧旻(みん)を国博士(くにのはかせ)としました。
国博士とは国の政治顧問です。

左大臣には、阿倍内麻呂(あべのうちまろ)、右大臣には、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)が任命されました。

647年、蝦夷(えみし)経営のために築かれた拠点は、渟足柵(ぬたりのさく)。「ぬたりのき」とも読みます。 648年には、磐舟柵(いわふねのさく)が置かれました。

改新の詔の条文をチェック

改新の詔とは、646年(大化2年)の正月、孝徳天皇が新たな国作りの方針を宣言したもので、4条からなっていました。改新の詔を条文ごとに見ていきましょう。

公地公民制

第1条では、私地私民の制度を廃止して、公地公民の社会を作っていこうと宣言しています。

公地公民の社会に移行して一番困るのは豪族です。
豪族たちは私有地私有民をたくさん持つことによって勢力を拡大してきたので、公地公民になることは大問題です。
豪族の私有地は田荘(たどころ)、豪族の私有民を部曲(かきべ)といいました。

政府はその代償として豪族に、食封(じきふ)・布帛(ふはく)を与えました。
上級豪族には食封を、下級豪族には布帛を与えることで豪族の怒りを鎮めようとしました。
食封・布帛とは、ある一定の戸(封戸(ふこ))数を指定して、そこから上がる税の大部分を本人に給付する制度のことを言います。

地方行政区画の整備

第2条では、全国を国(こく)・郡(ぐん)・里(り)という三段階に分けて、行政区画を編成しました。

地方は〇〇国△△郡□□里という具合に、 国・郡・里というシステムで統治されることになりました。

646年から大宝律令が制定される701年までの間は、郡という字は使われないで、評の字が使われました。
日本書紀には「郡」とあるのですが、藤原京あたりから出てきた木簡には「評」と書かれていました。

戸籍・計帳・班田収授法

第3条では、戸籍・計帳を作り、班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)を定めています。

班田収授とは、全国の土地を国有化し、6歳以上の男女に6年に1度、口分田(くぶんでん)と呼ばれる土地を分け与える制度です。
班田収授というシステムは、唐の均田法にならって作られたシステムです。

分け与える口分田の面積は、戸籍をもとに計算していました。
この家族には6歳以上の男が何人、女が何人いるから、合計でこの面積というふうに計算しました。
戸籍は班田のための台帳なので、6年に1度の割合で作られました。

計帳は、調(ちょう)・庸(よう)という税を課すための台帳です。
計帳は毎年作られました。

新税制

第4条は、租(そ)・庸・調などの新しい税制を作っていこうという内容です。

租は米を納め、庸は京での労働の代わりに米・布などを納め、調はその土地の特産物を納めました。

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