律令国家の成立

飛鳥時代

701年に大宝律令が制定されました。
律令にもとづいて政治を行う国家を律令国家といいます。
律令の定めた諸制度についてちょいと勉強していきましょう!

地方制度

全国を畿内と七道に区分しました。
そして、国・郡・里という3段階の行政組織を編成しました。

五畿七道(ごきしちどう)

五畿七道とは、古代の律令制における地方行政区画です。
五畿は畿内ともいい、都が置かれた重要な地域です。
畿内以外の地域は七道に分けられました。

五畿七道イラスト
ancoさんによるイラストACからのイラスト

五畿

五畿は、大和(やまと)・山城(やましろ)・摂津(せっつ)・河内(かわち)・和泉(いずみ)の5つの国から成り立っています。

大和国: 奈良県の旧国名
山城国: 京都府南部の旧国名
摂津国: 大阪府北中部と兵庫県南東部の旧国名
河内国: 大阪府南東部の旧国名
和泉国: 大阪府南西部の旧国名

七道

  • 東海道
  • 東山道(とうさんどう)
  • 北陸道
  • 山陽道
  • 山陰道
  • 南海道
  • 西海道(さいかいどう)

西海道以外は畿内に隣接しており、政府の支配が全国に浸透するように組織されていました。
九州には太宰府という政権の出先機関が設けられました。

国郡里制(こくぐんりせい)

道の下には国が置かれ、国の下には郡が置かれ、郡の下には里が置かれました。
それぞれに国司(こくし)・郡司(ぐんじ)・里長(りちょう)が置かれました。
国司は中央の貴族が任命され、地方に派遣されました。
郡司はその地域の有力な豪族が任命され、里長はその地域の有力な農民から選ばれました。

身分制度

人民は良民・賤民の2つに大別されました。
賤民はさらに5つに区分され、五色の賤(ごしきのせん)と呼ばれました。

五色の賤

  • 陵戸(りょうこ)
  • 官戸(かんこ)
  • 公奴婢(くぬひ)
  • 家人(けにん)
  • 私奴婢(しぬひ)

陵戸は天皇陵などの墓守りをする人です。
陵戸・官戸・公奴婢は官有の賤民で、良民と同じ口分田が与えられました。
家人・私奴婢は私有の賤民で、良民の三分の一しか口分田が支給されませんでした。
陵戸・官戸・家人は、家族を持つことができました。
公奴婢・私奴婢は奴隷で、人身売買の対象になりました。

賤民以外は良民で、一般農民も役人も良民です。
品部(しなべ)・雑子(ざっこ)は、官人に隷属して労務に服したり、特定の手工業品の生産に従事した良民です。

土地制度

律令制度では班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)がとられました。
6年ごとに、戸籍をもとに、6歳以上の男女に口分田(くぶんでん)を分け与え、死亡すると国家に返納させました。

良民の男子には、1人あたり2段(たん)、良民女子には、良民男子の3分の2の口分田が与えられました。
賤民の陵戸・官戸・公奴婢は、良民と同じだけの口分田が与えられました。
賤民の家人・私奴婢には、良民男女の3分の1が与えられました。

1段は360歩(ぶ)です。まとめるとこうなります。
 良民・陵戸・官戸・公奴婢の男子・・・720歩
 良民・陵戸・官戸・公奴婢の女子・・・480歩
 賤民(家人・私奴婢)男子・・・240歩
 賤民(家人・私奴婢)・・・160歩

税制

税制といえば租庸調(そようちょう)です。
順番に見ていきましょう。

収穫した稲を収める税。1段につき2束2把(にそくにわ)と定められました。
これは収穫量の約3~10%に相当しました。1段につきなので、良民男子の場合、租は4束4把になります。

租はそれぞれの地方(国)の財源となりましたが、歳入としては非常に不安定でした。
そこで春に種籾を貸し付けて、秋に利息とともに返済させる、出挙(すいこ)が行われるようになりました。

はじめは京に出て労働に従事することでしたが、その労働(歳役 (さいえき))の代わりに布などを京に納めることが庸になりました。

庸は正丁(せいてい・21~60歳の男性 )の場合、2丈6尺の布を納めました。年間10日の歳役の代替です。

調

基本的には繊維製品を納めることですが、地方の特産物を納めることも認められていました。

祖は地方の財源になりましたが、庸と調は中央政府の財源となりました。
庸と調を京に運んだ農夫を、運脚夫(うんきゃくふ)といいました。

雑徭(ぞうよう)というものもあり、これは年間60日を限度として地方で労役に服することです。
仕丁(しちょう)といって、50戸ごとに正丁2人を中央での労働に従事させるものもありました。

軍制

律令制時代の軍事制度は「軍団の制」と呼ばれており、諸国に軍団がいくつか設けられていました。
正丁(21~60歳の男子)が3~4人に1人の割合で諸国の軍団に徴発され、そこで軍事訓練を受けました。
その中の一部の兵士は、衛士(えじ)・防人(さきもり)という任務につきました。

衛士は宮中警備をしていました。任期は1年。
防人は北九州の沿岸を防備していました。任期は3年。

衛士・防人についた人々は、食料・武器は自弁でした。だから、家族の中から兵士が1人出れば、その家族は滅びるとさえいわれていました。

防人についた人々の多くは東国出身の兵でした。防人の悲哀は、万葉集の中の防人の歌によって知ることができます。

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