聖武天皇の時代

奈良時代

聖武(しょうむ)天皇は、奈良の大仏をつくった人として有名です。
元明天皇元正天皇は知らないけれど、聖武天皇は知っているという方も多いのではないでしょうか?
聖武天皇の時代をちょいと勉強していきましょう!

聖武天皇とは

聖武天皇は第45代天皇で、724年に元正天皇から皇位を譲られ即位しています。

父は第42代天皇である文武天皇、母は藤原不比等の娘・宮子です。

皇太子時代に藤原不比等の娘・光明子(こうみょうし)と結婚します。
母と后は異母姉妹です。

光明子はのちに光明皇后となります。光明皇后は皇族以外で初めて皇后になった人物です。

長屋王の変

聖武天皇時代の初期に権力を握っていたのは、長屋王という皇族です。

729年、長屋王は藤原不比等の4人の子どもたちによって自殺に追い込まれます。
この事件を長屋王の変といいます。

藤原不比等の息子4人を藤原四子(ふじわらしし・ふじわらよんし)といいます。

彼らは妹の光明子を皇后にしようとしていましたが、長屋王は皇族ではない女性が皇后になることに反対していました。
そのため長屋王は不比等の息子たちに謀反の疑いをかけられて、自殺に追い込まれました。

藤原四子

長屋王の変の後、光明子は光明皇后となり、藤原四子は政権を握りました。

藤原四子は次の四人です。

  • 武智麻呂(むちまろ)― 南家(なんけ)藤原氏の祖
  • 房前(ふささき)― 北家(ほっけ)藤原氏の祖
  • 宇合(うまかい)― 式家(しきけ)藤原氏の祖
  • 麻呂(まろ)― 京家(きょうけ)藤原氏の祖

737年、この4人は相次いで天然痘により亡くなってしまい、藤原四子の時代は終わりました。

橘諸兄

藤原四子の次に権力を握ったのは、橘諸兄(たちばなのもろえ)です。

橘諸兄を支えたのは、玄昉(げんぼう)と吉備真備(きびのまきび)です。
二人は遣唐使として唐に渡った経験があります。
玄昉は法相宗(ほっそうしゅう)の僧です。

玄昉と吉備真備を快く思っていなかった藤原広嗣(ひろつぐ)が、二人を政界から追放するため、740年に九州の太宰府で兵を挙げました。
藤原広嗣の乱といいます。
藤原広嗣は宇合の子で九州に流されていました。

国分寺建立・大仏造立

聖武天皇が即位した頃から、朝廷内の権力争いや伝染病の流行、飢饉(ききん)などで非常に不安定な時代が続いていました。
聖武天皇は仏の力によって国の危機を乗り越えようとしました。

聖武天皇は、741年に国分寺建立の詔(みことのり)を出します。
これは、全国に国分寺をつくろうという宣言です。
仏教の力で混乱した政情や社会不安を鎮めようと考えたのです。
その結果、諸国に国分寺と国分尼寺(こくぶんにじ)が建てられました。

国分寺の正式名称は、金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)。
国分尼寺の正式名称は、法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)。
国分寺の総本山は東大寺、国分尼寺の総本山は法華寺です。

743年には、大仏造立の詔を出します。
この詔によってつくり始めたのが奈良東大寺の大仏です。
奈良の大仏の正式名称は、東大寺盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう)です。

大仏造立に協力した僧侶は行基(ぎょうき)です。
行基は布教だけでなく、道路やため池、橋などを作る社会事業も行っていたので、民衆には非常に人気がありました。
大仏造立の人手が足りなかったので、聖武天皇は行基に協力を求めました。

752年、大仏の開眼供養(かいげんくよう)が行われました。
この時の天皇は孝謙天皇です。

聖武天皇は749年に娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位し、太上天皇となりました。

墾田永年私財法

743年、三世一身の法を受け継ぐ形で、墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいのほう)が出されました。
墾田永年私財法は、開墾した土地は永久に私有を認めるという法令です。

この結果、貴族や寺社が次々に土地を開墾し、荘園と呼ばれる私有地が発生しました。
私有地が認められたため、公地公民制が崩れました。

遷都を繰り返す

奈良時代の都はずっと平城京ではありません。聖武天皇が遷都を繰り返しています。

740年、藤原広嗣の乱鎮圧の報告が届く前に、山背の恭仁京(くにきょう)に遷都します。

744年には、摂津の難波宮(なにわのみや)に遷都します。

翌745年に、近江の紫香楽宮(しがらきのみや)に遷都します。

同じ745年に、再び平城京に都が遷されました。

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