推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子の政治

日本史

日本史で最初の女帝が推古天皇(すいこてんのう)です。

推古天皇を補佐したのが、厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、蘇我馬子(そがのうまこ)です。
厩戸皇子は聖徳太子のことです。

推古天皇の時代をちょいと勉強していきましょう。

丁未の乱(ていびのらん)

6世紀中頃、渡来人の手によって仏教が伝来しました。

仏教をめぐって、蘇我氏と物部氏が対立します。
渡来人と付き合いが深かった蘇我氏が崇仏派、神道と関わりが深い物部氏が廃仏派です。

両氏の争いは半世紀近く続き、次の天皇を誰が立てるかの争いにもなりました。

そして、587年に丁未の乱(ていびのらん)が起こります。

丁未の乱は蘇我馬子と物部守屋(もののべもりや)の戦いです。
この戦いで物部氏は滅亡します。

崇峻天皇(すしゅんてんのう)暗殺

丁未の乱に勝利した蘇我氏は絶大な権力を握ります。

蘇我氏は自分の娘を天皇に嫁がせ、天皇と縁戚関係になることで、権威を高めていきました。

蘇我馬子は蘇我氏の血を引く崇峻天皇(すしゅんてんのう)を即位させます。

崇峻天皇は即位しましたが、実際に政権を握っていたのは蘇我氏だったため、崇峻天皇は不満を持ちます。

それを察知した蘇我馬子は、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて、崇峻天皇を暗殺させます。592年の出来事です。

推古天皇即位

推古天皇は、暗殺された崇峻(すしゅん)天皇の後に即位しました。第33代天皇です。

推古天皇を補佐したのが、厩戸皇子(聖徳太子)、蘇我馬子です。

厩戸皇子は摂政となります。
摂政とは天皇に代わって政治を執り行う役職です。

推古天皇も厩戸皇子も蘇我氏の血を引いています。

冠位十二階

603年に厩戸皇子が制定したとされる、日本で制度化された最初の位階が、冠位十二階です。

徳・仁・礼・信・義・智の六つの徳目を大小に分け、12の位が制定されました。
最上位が大徳(だいとく)、その次が小徳(しょうとく)、最下位は小智(しょうち)です。

冠位十二階によって、個人の能力によって昇進する道を開き、幅広い人材登用を試みました。

憲法十七条

604年に制定された、役人の心構えを説いたものが、憲法十七条です。

今の日本国憲法とは全く違うものです。

厩戸皇子が作ったとされています。

一に曰(いわ)く、和を以(も)って貴(たっと)しとなし、忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ。

二に曰(いわ)く、篤(あつ)く三宝(さんぼう)を敬え。三宝とは仏と法と僧となり。

三に曰(いわ)く、詔(みことのり)を承りては必ず謹め。君をば則(すなわ)ち天(あめ)とし、臣をば則ち地(つち)とす。

和を大切にしましょう。

仏・法(仏の教え)・僧を大切にしましょう。

天皇の命令には謹んで従いましょう。

遣隋使派遣

607年、厩戸皇子(聖徳太子)が小野妹子(おののいもこ)を隋に派遣しました。

小野妹子が持参した国書には、『日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す』という文言がありました。

日出(い)づる処(ところ)の天子とは、推古天皇です。
中国から見ると日本は東にあるので、日の昇る国という意味です。

日没する処の天子とは、隋の煬帝(ようだい)です。
日本から見ると西に太陽が沈むからです。

煬帝はこの国書を喜びませんでした。
この文面には中国と対等の関係で外交をしようという態度が表れているからです。

煬帝は怒ったのですが、次の年に返礼の使者を日本に送っています。

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