邪馬台国についてちょいと勉強

日本史

邪馬台国といえば卑弥呼。

邪馬台国といえば『魏志』倭人伝。

邪馬台国については日本史の授業の最初の方で勉強するのですが、大人になるとほとんど忘れてしまいますね。

邪馬台国について基本的なことだけでも勉強してみましょう。

邪馬台国は小国の連合体

邪馬台国のことは『魏志』倭人伝に書かれています。

『魏志』倭人伝は独立した1冊の本の題名ではなく、中国史書「三国志」の中の一部です。

『魏志』倭人伝には、中国から邪馬台国までの道程が書かれています。

また、『魏志』倭人伝には、邪馬台国には「大人(たいじん)、下戸(げこ)、奴婢(ぬひ)」という身分があったことや、税金、刑罰の制度があったことも書かれています。

2世紀後半から3世紀にかけて、日本には小さな国が乱立していました。

稲作技術が伝わり、当時の人々は効率よく稲作を行うために多くの人と共同で生活を行うようになり、「クニ」という政治的まとまりが生まれたのです。

農耕社会になると、狩猟生活の頃よりも安定して食糧を確保することができるようになったのですが、米や農具、土地の奪い合いなど小国間の争いが増えました。

そこで30あまりの小国が連合して邪馬台国が成立しました。
卑弥呼は30あまりの国の王たちの話し合いによって共立されてリーダーになりました。

卑弥呼は鬼道を用いて政治を行っていたと『魏志』倭人伝にあります。

鬼道とは占いとか神のお告げのことです。

卑弥呼が魏に使者を送る

景初二年、卑弥呼は魏に使者を送っています。
これも『魏志』倭人伝に書いてあります。

使者の名前は、難升米(なしめ)です。

この遣使に対して魏の皇帝は卑弥呼に「親魏倭王(しんぎわおう)」という称号を与えました。
称号の他に金印、銅鏡なども与えました。

卑弥呼の死後

『魏志』倭人伝によると、卑弥呼が死んだとき、一緒に葬られた奴婢(ぬひ)が百人くらいいたとのことです。

卑弥呼が死んだあと邪馬台国は男子が王になったのですが、国が収まらなかったとあります。

そこで卑弥呼一族の13歳の女子、壱与(いよ)が邪馬台国のリーダーになったら国が治まりました。

邪馬台国はどこにあったのか

邪馬台国がどこにあったのかについては、今でもわかっていません。

『魏志』倭人伝には、帯方郡という魏が朝鮮に経営した植民地から邪馬台国に至る行程が書かれていますが、それでも畿内説と北九州説が対立しています。

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